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| 善意の消費 | 2014/07/26 | | | 人は生まれた時の真っ白な状態が、つまり善意に満ちた姿かと思う。 それは成長を経て、性格や内面というクスミが付いていき、 企みや打算といった悪意のシミを作る。 生まれた時が善意100%、成長とはそれを減らしていく事かと思う。 人間の味わいは、その人なりの善意の減らし方にあるものかと考えるようになりました。 私が子供達のように真っ直ぐ笑えないのは、 そうした善意の消費によるものなのです。 そう考えると、静かに生きたいと願うようにもなります。 自己を堅持しない方向で、ささやかに善意の消費を行いたい、 というのが正直な願望だと思います。 ただ、成長というのはそれさへも許してもらえない。 私という人生、私なりの善意の消失は、 抗う事ができない、河の流れのようです。 静かに流されようと、波に身を任せても、 結局、自分の意図しない急流や濁流があり、 善意を消耗していくものです。
さて、人、個人という次元から離れ、 地球という人間の歴史、文化、文明のくくりで見てみると、 こちらも成熟するほどに善意を損なっているのではないかと感じます。 民族・土地・戦争・資源、あらゆる分野で歴史が成熟しようとすると、 善意は失われていきます。 現在、私達の生きる地球に好転的に見える事象が見当たりません。 何となく、どっかで何とかなるだろう、 生きているうちの事ではないから実感がない、 というところで納得しようとしていますが、 人類は善意を消失する方向に進んでいるように思えてなりません。
みんなが、静かに生きようとすれば、 少しは好転しますでしょうか。 みんなが、消費を分相応に行えば、 善意は未来を見せてくれるでしょうか? | | | | 他力と本願成就 | 2014/06/06 | | | 器用である事は、効率的ではありますが、好奇心に欠けます。 不器用である事は、奔放ではありますが、根気に欠けます。 また、これらが調和すれば、安定はしますが、勇気を損ないます。 物事の根幹は意図しない心、 ひたすら愚直なれ。
知らずを知らずと知る、即ち受動の心であり、 知るを知らずと知らせる、即ち能動の心となりましょう。 知るも知らぬも知った上で忘れる、即ち不動の心となりましょう。 知ろうと求める事は成長ではありましょうが、 忘れなければ身に付かず、 言葉にすれば悪徳となります。 物事の本懐は無知の心、 ひたすら愚直なれ。
弱さは優しさにつながりますが、軽率さを伴います。 強さは厳しさにつながりますが、鈍感さを伴います。 力とは時間という大河のエネルギーであって、 流されている自分に存するものではないと自覚する事、 ひたすら愚直なれ。
これ即ち私の本願であります。 | | | | 皺枯れた反骨の魂 | 2014/05/27 | | | 先日、夕刻に練馬界隈の比較的大きな交差点で、赤信号が開けるのを待ちよりまして。 そうすっと、横断歩道の向こう側で同じく赤信号が開けるのを待ちよる群衆の中に、 ひと際白髪が目立つ老翁が、チャリンコに乗りよりまして。 最前列ではなく、比較的後方にその希少な白髪がフワフワ風に弄ばれているのが見えて、 何となく気になった程度の事でごじゃしゃんしたが、 ワシの第六感が大した直感もありゃず 「アヤツは何かあるから見張っておけ」的な指令を出しよりましたんで、 青信号になって横断歩道を渡り始めた時に、 対面からチャリンコでさらにフラフラした白髪を気にかけておったんでごじゃんす。
そのヒョロンコした皺枯れた体で、骨太なチャリンコにまたがり、 横断歩道にまろび出たその老翁がまとったTシャツに、 「倍返しだ」 と大書しておりゃしゃんすのを見て、 『それは着せられてるでしょ』 と思おうて、面白からころんと感じやしゃんした。
年の頃からも、その老翁は半沢直樹を知らしゃらんと思いしが、 言葉の意味は重々承知の事でありやんでしょうから、 恐らくは、よほど強い反骨精神と寡黙な反体制一匹狼とも言わんがような老翁であろう事に、 静々とその気概を胸に、「倍返し」Tシャツを着よりんしゃったんでありやろう。
ワシや勝手にその老翁を寡黙一徹な男と想像しらんところ、 げに勇気のあたたまる光景でござしゃんした。 | | | | ちょっとオッサン | 2014/05/24 | | | 「ちょっと〜、それオッサン」 的なまとめ方は嫌いです。 オッサンを否定するような年齢ではないと自覚していますが、 一概にオッサンくくりにするのは、知恵がないと感じます。 オッサンを否定する年齢ではないという自覚があるという事を前提に、 オッサンでも、色んなオッサンがいて、派閥があるという事を基に、 何派、或いは何々系のオッサンと思ったかを明らかにして言葉を投げかけてほしいと思います。 「ちょっと〜、それ○○系(○○派)オッサンだよ」 という正しい表現でその旨を伝えてほしい。
曰く言い難い、言葉にし難い部分を安易にオッサンとしてカテゴライズされてしまう訳で、 オッサンと中傷された上に、それに見合うだけの考察がないというのは、 オッサンがかわいそうです。 そもそもオッサンが蔑称化している風潮もどうかと思いますが。
決して自分がオッサンの例外と言いたい訳ではなくて、 オッサンをもう一階層細分化して捉えて頂きたいという事なんです。 こちらはそれなりの経験や考察と洞察から、 情緒とタイミングを視野に入れつつ、 羞恥心と自己顕示欲のバランスを見て、 KYとならないような流動性と問題提起力を以って、 事後の発生事象も想定しながら、 やっと言葉として表現している事を、 「オッサン」のひとくくりで片づけられると、 矢張り短絡的で思慮に欠けると思うんです。
そこでオッサンと決めつけてしまったら、あなたはそこから思慮を巡らせないでしょう、 でも、その一歩先に面白み、旨味、それこそ情緒があるんだけどねぇと感じる事が多いんです。 それは自分の発言に起因したものだけではなく、人の発言でも感じます。
辛酸を舐めたオッサンの発言は、もう少し情緒を以って表現されるべきかと思います。 オッサンを否定するような年齢ではないから言っているのではなく、 オッサンを否定したい欲求もなく、 オッサンという生き物を否定する意味でもなく、 それはオッサンを有意義なものにするという志をもとに、 オッサンの再考を望むものです。 | | | | 11周年 | 2014/05/17 | | | まぁ、そんな自分ではめでたいとも何とも思ってはいないのですが、 つい先日5月14日は僕のデビュー記念日でして、 メジャーデビューの日から数えると11年というキャリアを積んだ事になります。
とは言え、その前から音楽はやっていて、デビューまでも時間と労力を費やしていたので、 厳密に言うと、僕の音楽人生はもうちっと長いわけです。 正直、あまり自分の何周年という時間の経過に興味を持った事がないので、 実際何年やっているかはしっかり覚えていないです。
最近、ふとした時に、デビュー当時の事を、発作的に思い出すのですが、 あんまりいい記憶はフラッシュバックしないですんね。 大概が、自分のその当時の未熟さや、周りの大人達へのくやしさばかり思い出したりして、 いたたまれなくなる時があります。
メジャーだなんだ、やれツアーだレコーディングだ、とあくせくしていたあの頃、 あの頃の環境はとても良かったのでしょうが、 心持としては、今より数段落ちますね。 今の音楽に対する気持ちの方が、自分でも好きだなと思います。
この「好き」という想いを外敵から守り、好きだという基本を着実にやり続けていきたいなと思っています。
| | | | エアータオルを信頼できていない件 | 2014/04/28 | | | エコなのか、何なのか、昨今のトイレにはエアータオルが、 ブォーブォーと虚勢の音を響かせている。 まずもってうるさい。 ただそれはこの際、許容範囲としよう。 だけど、その殺菌効果のほどを僕は非常に疑っている。
あいつらエアータオルの吐き出している空気は、トイレ内の空気でしょ。 外への換気口も見当たらないし。 大腸菌だ何だかんだがウヨウヨしているトイレの空気を集約して、 洗いたての手に吹きかけている状態ですよね。 それって汚くございませんこと? それに殺菌灯みたいなものが申し訳程度に光っていますけど、 吹き付けられているトイレの空気と比較して殺菌が勝るとは到底思えないんですよね。 汚いなぁと思うんですよね。 それに、トイレの空気が集中的に集められるもんだから臭いんです。 嗚呼、耐え難きかな、あの不衛生。
だから、嫌いなんです、あの文明。 否、あの文明にエコだとか語る正義が気に喰わない。 否、紙タオルを浪費とのたまう正義が臭くて堪らない。
僕がアルコールティッシュを常に持ち歩いていないと気が安まらなくなったのは、 こいつら正義のせいなんです。
あと、トイレの扉にもう少し配慮がほしい。 入る時が引き戸で、出る時が押し戸であるべきなんでないですかね。 世の中、これとアベコベなトイレばかりですよ、いいんですかね。 だって、手を洗った後、トイレを出る時に引き戸だったら、 重い扉の取っ手を洗った手でつかまなくちゃならないんですよ、汚いじゃないですか。 もしこれが押し戸だったら肩や膝で押して出るという事が可能なんですよ。 そうさせて下さいよ。 結構、手も洗わずに出ていく人を見掛けますよ。 そういう人に限って、思いっきり扉の取っ手を握り込んでいるんですよ。 動線なんて事を言う正義もありますが、 その不衛生さと比べたら、クソ喰らえですよ。 トイレの話題だけにクソ喰らえはリアルですね。
僕は上記の理由から、公共の場のトイレには非常に不満を持っています。 もし、まかり間違って僕が都知事になるような事があったら、 まず真っ先にその腐敗の根を浄化しますね。 トイレ改革を公約の第一項に加えるでしょうね。 もし、天地が720度回って僕が国の政治家になるような事があったなら、 「トイレから日本を変えていきます!」 と街頭演説で街行く有権者の皆様に訴えかけるでしょうね。 | | | | 健康ヶ原の合戦、カフェインゼロッ!? | 2014/04/27 | | | 風が止んだ昼下がり、 何気なく自販機でお茶を買ってチビチビと飲んでいたんですね。 「HOT」のお茶をチビチビとやりながら、 『今日のこの眠気なんとかならんかなぁ…』 と思っていたんです。
僕自身は今年の春は朝が早い日々が続いていて、 宵っ張りの性質が、いつ眠気を振り掛けてくるかヒヤヒヤしていたんですが、 存外、シャキッとしたもので、心配したほどのあくびの量もなく、 『あぁ、今年の春眠はちゃんと暁を覚えるもんだなぁ』 という感慨に至っていたのですが…、 今日は眠かった。 2秒も止まれば、コックリと落ちてしまうような眠気が一日中背骨にまとわりついていたんで、 今日は眠かった。 そして、その眠気との合戦は激戦を極めました。
コーヒー、エスプレッソ、コーラー、こちらは持てる決死の精鋭を総動員して挑むのですが、 思い掛けない眠気の大軍を前に、ことごとく壊滅、敗退を繰り返していたのです。 この合戦が押しつ押されつ長期戦の構えになり、両軍にらみ合いのこう着状態に入った時、 山口軍に援軍の一報が入りました。 「只今、自販機から使者が参り、お茶軍が眠気の背後に兵を進めておるとの事にございます!」 「おぉっ!遂にお茶の援軍が動いたか」 「お茶と言えば、カテキン、カフェインを豊富に装備しており、場合によってはコーヒーにも勝ると聞き及んでおります」 「何よりの朗報じゃ!」 「さしもの眠気も、背後からお茶に攻められたとあっては崩れるほかあるまい、我等も呼応して一気に攻め込むぞ」 「おぉっ!!」 長い苦戦に喘いでいた山口軍の士気は俄かに活気付き、一縷の勝機に沸き立ちました。
暫くすると物見から歓喜の知らせが入りました。 「眠気の背後にお茶の旗指物が迫っております」 「おぉ参ったか!」 「その数、およそ500ml」 「大軍じゃ」 「皆の者、今こそ勝機!我等も討って出て眠気を蹴散らしてくれようぞ!」 体中の血潮が熱気を持ち、今まさに最後の大一番に出陣しようとするところ、 再度物見から急報が入ってきました。 「お茶の旗指物にカフェインゼロと大書されております!」 「何とっ、カフェインを伴っておらぬのか」 「カフェインゼロの純水仕立ての陣構えでございます」 「おのれ、ここにも健康志向の調略が回っておったか」 「お茶軍は次々と眠気に取り込まれていっております」 「むぅ、もはやこれまでか…」 かくて、山口軍は純水を取り込んだ健康志向の眠気の大軍に敗北を喫する事とあいなったのです。
思えば、健康志向の魔の手は山口軍と同盟関係にある軍勢を次々と調略し、 骨抜きの軍隊に仕向けていたのです。 まずお茶はカフェインを奪われ、ビールはアルコールを奪われておりました。 また最大の同盟軍であるタバコは電子タバコでニコチンを奪われ、流言飛語により世間から不興をかい、 狡猾な税金の策謀の的となって全く身動きがとれない。 更には、幼い頃から義兄弟の契りを交わしていた合成着色料並びに甘味料達は、 オーガニック派閥の台頭によって食品界が本物志向へ変わり、政局から罷免されつつある、 というのが、我が山口軍を取り巻く情勢であるのです。
孤立無援、まさに四面楚歌の中、 山口軍は孤軍奮闘、健康志向の体制と今も戦いを続けているのです。 | | | | | | 畳の上で… | 2014/04/26 | | | 俺は東京に出てきて、金も何もないなりに音楽を生業とし始めてから、ちょくちょく人に語っていた言葉がある。 「俺は畳の上では死なせてもらえんよ」 自分の予測能力や計画性は皆無と言って過言でないが、 この言葉だけにはどうも予感・実感がこもっていて、 予測は的中するのではにかという自信が沸いていた。
今?今もそんな気はする。 ただ、自信は年々薄れてきてはいる。 これは自分が、年々、より人間的な暮らしを得始めているからだろう。 辛うじて人間と呼んでもらえるだけの立ち振る舞いを覚え、 まぁ大人とと言って許されるいくらいの金を使い、 名前だけでも覚えてもらえる程度の優しさや落ち着きを見せられるようになってはいるのだ。
ただ、そんな自分に口惜しさを覚える事が、ごくたまにある。 「お前は畳の上で死にたがっているじゃないか」と。 実際、死ぬ時になったら、別にどこでどう死のうがいいっちゃあいいんですが。 今の自分の人生に対する反発力が緩んでいるように思える時が、何だか寂しいんですね。 昔はピンと張ったゴムのように、自分に影響する事象いちいちを打ち返していたと思うのですが、 今の俺というゴムは、事象をまるで包むかのようにして、伸び、、順応している。
そんな時、自分に問うてみるんです。 「どんな死に方であれ、俺は死ぬ最後の瞬間に唄を歌うと思いますか?」 「最後の息で歌うのは、自分が作った曲ですか?」
そう自分に問うてみると、心は「YES」と言うんです。 意外とすんなり、何の躊躇なく「YES、そうしたい」「そうなるような自分を保ちます」と答えが出てくるんです。 そして、今一度「畳の上で死ねない」予測への自信を取り戻し、 俺は、明日へと向かっていけるんです。 俺は、何とか生きていこうと志を新たにできるんです。 | | | | つなぎ直す兆し | 2014/04/25 | | | 我が家がインターネットな世界から隔絶され、一年近くを過ごしたでしょうか。 自分のHPすら見ない時間でした。 正直なところ、大変に解放されていた時間でもあります。 見たくもない、知りたくもない情報を眼にする事無く過ごせました。
今やFacebookだTwitterだ、不都合な便利がたくさんあって、 つぶやいたりいいねと思ったりする事もイチイチ公表して共有する時代ですが、 僕は矢っ張り秘密は秘密としてそっとしておきたい性質ですから、 こうした文明に馴染めない性分なんですね。 人のつぶやきを見る事が、人のプライベートな部屋や生活をこっそりのぞき見ているような感覚で、気分の良いものではないと感じます。
そんな文明にちょっと嫌気がさして、慕夜かなくなり、 あれよあれよと言う間にこのHPも遺跡となってしまいました。 果たして今どれだけの人が見ているものか…。 まぁ、忘れ去られてるでしょうね。
そして、この春、この忘れ去られたところから、 また再び出直して、つなぎ直していこうかなと改めて考えております。
それは、先日、とても嬉しい再会があった事がきっかけです。 十年位前、デビュー当時、僕が初めてちゃんとパーソナリティーとして持った「塵蓄夢街」というラジオ番組のディレクターだった石井さんと再会をしました。 あの当時、右も左も、社会も、音楽もまだはっきりと見分けがついてなかった頃だったのですが、「楽しい」や「好き」という想いに一途だったなと思い出す事が出来ました。 それをきっかけに、まだ上京する前に作っていたデモテープを聞いてみたり、昔よく唄っていた曲を唄ってみたりしているうちに、 もう一度、自分のやってきた事、通ってきた道につながって、関わりを持ってみようと思ったという訳です。
勿論、今まで活動としてライブをやってはいましたが、 それとはまた別のアウトプットとして、このHP、慕夜記を再開して、 自分のミュージシャンとしての内面と関わって、つなげていきたいと思っています。
そんな春を迎えて、気持ちも新たに僕なりの足音を立ててみます。 さて、みなさんの耳に心地よいといいのですが。 | | | | カ・ナ・シ・ミ | 2013/10/16 | | | 悲しみ 哀しみ 肩や首の痛みに気を病んでいる。 悲しみ 哀しみ 吾は次第に老いている。 悲しみ 哀しみ 吾は老いを牽引している。 悲しみ 哀しみ 弦を押さえる指ダコの、皮膚の剥がれが早くなる。 悲しみ 哀しみ ギターで我を忘れていた吾が、我を忘れる為にギターに触れられず。 悲しみ 哀しみ 喜びを記憶できず。 喜びが傷となり。 悲しみ 哀しみ 昨日の人を覚えられず。 明日の人に気配れず。 悲しみ 哀しみ 吾は言葉を選び、 吾は次第に言葉を止めるようになった。
無智に戯れ、無恥に興じ、無謀を企み、無法に費やした悠久の時が、 無惨な夢想と知った吾は、知り得たものを信じなくなった。 悲しみ 哀しみ カナシミは我の知るところとなった。 カナシミは吾の与うるものとなった。 カナシミは吾の秘するところとなった。 カナアシミは吾の営む糧となった。 | | | | とき、どき、 | 2012/04/18 | | | ふと、ふと、 五年前くらいの事を思い出すと、 つく、づく、 悩むだけの暇があったなぁと思う。 それは辛い思い出ではなく、 贅沢なひとときだったと、今は感じている。
今の俺ときたら、時間と云う大車輪の中に転がって、 足を止める事すらできないほど、自意識がない。 まったく力強く、たくましい命に、 ただ、ただ、 翻弄されるような毎日。
とき、どき、 自分を叱責する事がある。 俺を返してくれ、と、 とき、どき、 自分を嘆く。 ただ、ただ、 力強く、たくましく生きるようになった自分に、 ひ弱だった俺を返してくれ、と頼んだりする。
生物として当たり前に生きていこうと懸命になる事に、 或いは、生活を良くしようと工夫する事に、 とき、どき、 恐ろしくつまらない自分を見出し、 何故か自信と安心を得たりして。 俺は変わったなぁ、と思うんだ。
| | | | リア充 | 2011/11/26 | | | 最近、『リア充』なんて言葉をちょくちょく見ます。 どうやら恋人がいて、付き合っているとリアルに充実していて、 『リア充』と、称するようです。
リアルが充実なんですかね、リアルに充実なんですかね、 どっちにしても僕には一向にグッとこない言葉です。
恋人とかがいて充実とするのなら、 僕は全く正反対の性質を持つ人間ですので馴染まないです。 恋人と一緒に居て充実はしないですね。 殊に自分の精神的には。 いなくて充分充実するのです。 いない方が充実するでしょう、 殊に自分の精神的には。 「今更どの年齢面さげて」と、 自分でも時折思いますが、 僕のようなアマノジャクは、恋人のニーズを考慮に入れるだけで、 どうにかなってしまいそう、気がおかしくなります。 最近、つくづく独りが安らぎます。
この安らぎの空間に人の気配があるだけで、不快に感じる事でしょう。 恋人なんかより返って同性の友達の方が割り切れていて、楽しむでしょうね。
こんな例えがあります。 僕は外では酒を多いに呑みますが、 家では一切、一滴も呑みません。 ひとつにはその自分の安らぎの空間や時間を酔って、 前後不覚に過ぎてしまうともったいないと感じるからです。 どんなに落ち込もうと、酒を呑んで寝てしまえという考慮はないです。 のたうち回って、もがき苦しんだ方が、 僕はリア充です。
こうして物事を考えていられるのも、 誰にも話しかけられない安定した静寂があるからこそです。 恋人のぬくもりよりも、 こうして堅く冷たい孤独な部屋で、 僕は至高・至極のリア充を得ています。
僕はよほど気が散りやすく、流されやすい性質なんでしょう、 また考えるのが極遅い質ですので、 矢張りこの空間と時間だけは、 どんな人にも邪魔されたくないと願います。
これ人から見ると不幸なんですかね? これ人から見ると寂しいんですかね? これ人が聞くと気味悪いんですかね? 僕は一切そう感じないのですが。 | | | | ウジムシ | 2011/11/25 | | | 君は自分をウジ虫のように罵っては溜め息をついてるけど、 そいつは優しさ故の苦しみだと、僕は思っているんだよ。
世の中には自分がウジ虫だと知らずに人の心を土足で踏み越えている奴が、 わんさかわんさか現れては消えていくんだよ。
人の事を先に考えてしまう時、人はどうしたってウジ虫になって、 クヨクヨしなくちゃならない。 優しさなんて小馬鹿にしていれば、君がこうも苦しむ事はなかったろうにね。 「所詮」とか「たかが」って人の心を推し量れれば、 君はこうも自暴自棄にならなくて済んだろうに。
なんて優しい奴なんだろう君は。 人の為にウジ虫になって、そして人知れず傷付いているんだろう。
こうして生まれて来た以上、矢っ張り君らしい苦しみを友に、 君は歩みを止めないものだから。 | | | | 畏怖 | 2011/11/22 | | | 人には、それぞれのステージがあり、 人それぞれ苦心の末に、まるで導かれるかのように、 その人唯一のステージに辿り着く。 ひとり分のピンスポットが降りている、 まるで小さな居場所。
そのひとり分の光を浴びる為に、どんな人もひた向きになる。 どんな傲慢な独裁者であろうとも、 自分のステージを目の前に、恐ろしいほどの孤独を感じる。 どれだけ虚勢を張ってみても、内心に巨大な重圧と果てしなく続く緊張感に、 畏怖しなければ、それは本当の居場所、上がるべきステージではない。 判り易いのは、コーナーでゴングを待つボクサーの眼だろう。 恐怖を越した重圧に、とても静かな緊張感を漂わせている。
そこで、 平常心であるべきだが、日常であってはならない。 そこで、 精神集中しても、決して意気込んではいけない。
そのごく矛盾した屁理屈、支離滅裂な空間や時間を、 自身のステージだと身を染めたならば、 それら全ての矛盾を道理として、背骨として立たなければならない。 誰に理解される訳でもない、 文頭に述べた孤独とは、この事だ。
近くても近寄り難い存在、 遠くても声の届く存在になるのだ。
「君らしい」 と評されたとしても、 「いつもの君だ」 と褒められてはいけない。
「別人のようだ」 と感じさせる事があっても、 「イメージと違った」 と驚かせては本当の事は伝わらない。
俺は最近そんな心の味わいがどこら辺に潜んでいるのか予感できるようになってきた。 タイミングは多少ずれるだろうが、だいたいの方角は間違っていない、 日々着々と、俺は本来に気付き始めているのかもしれない。
今夜のギターの音色は、そう説いて俺を夜へと、無意識へと、眠りへと、 導いている。 | | | | 嘘をつくのなら | 2011/11/06 | | | 私はここまで自分に手を焼いて生きて来ると、 いっそ閻魔大王にさへ嘘を付けるんじゃないかという気がして来ます。
人はあれやこれやと人の埃やほころびを時には楽しそうに、 時には苦々しくも突っつき回り詮索しますよ。
私は決してそんな事に気を回した事はございません。 ただ、そういったやかまし屋を黙らせたくて嘘をつきました。 そいつはそんなにいけない事ですか。
私が少しでも隙を見せると、さも当然の権利のように、 私の居場所を強奪しようとする人がいたのです。 私が私の寝床を守る為、こっそりついた嘘を、 何百倍、何千倍もの罪として宣伝されているのです。 寝不足を何日も抱えてでも、その人の為に嘘をついてはいけなかったのですか。
私だけの楽しみに隠しておいた秘密のお菓子も、 鬼の首をとったかのように、 あたかもその人のお菓子だったかのように、 荒らされ、傷付けられ、 それでも私の為だというのです。 「はい、その通りだと思います」 と言った私の嘘は、厳重に罰せられるべき事なのでしょうか。
閻魔様よ、どうか私の情を汲んで、 ここは黙って騙されて下さい。 | | | | 明滅 | 2011/03/03 | | | 僕が中学生の時の話です。 野球部の友達と土曜の練習を終え、二人でチャリンコをこぎながら家に帰っていたのですが、 その時の会話を今でも覚えていて、時々思い出します。 それはまだ13歳の中坊にしては、よく考えた人生観だったと思います。
話の相手はスギさんという優等生でした。 僕等は境川の堤防一本道の上から、午後ののどかな田園風景を眺め、 これが僕とスギさんでは見え方が違うんだろうという点から話が広がりました。 見え方が違う。 僕が丸く見ているものがスギさんに四角に見えていてもおかしくない。 僕が丸だと言えば、スギさんの耳には四角と聞こえ、 一点の対象物に対して、とても不確かな共通観念で伝達し合っているに過ぎないだろう。
そこで僕等は全ての感覚に疑問を持ちました。 視覚が違えば、聴覚、嗅覚、味覚、触覚ですら、 さも当たり前に共有しているけど、 眼に見える風景や、身体や、感情も、 その実は何も触れ合う事なく、観念だけでコミュニケーションをとっているだけじゃないか。
じゃ一体、僕等の正体は何なのか? これについては、僕等は家に帰って各々考える事としました。 僕はそんな事を考えるのが楽しくて、 あれやこれや想像を膨らませました。 結果、辿り着いたのが、 僕等の実態は、一点の灯り、宇宙に浮かぶ星の光のようなもので、 そこにじっとして動かないもの。 ただその光線が交わるところで他の光と不確かなコミュニケーションをとっている。
僕はそれを次の日、スギさんに説明しました。 スギさんも驚くほどよく似た答えを持っていました。 僕等はそこから、命についても考えました。
つまり、その光は永遠にそこに留まって光り続ける。 僕等が人間だと思っている殻は、所詮その光が見せるイメージなのだ。 その光のイメージが変わる度、昆虫になり鳥にも、物にだってなれる。 前世だとかいうものはきっとそれなんだろう。 自分、僕、己として自覚している感情はずっと長い間、 形を変えて、培われて来た結晶なんだ。 僕等の考えはそんなところで結実しました。
果たして、今35を迎えた僕は、 殻に悩み、殻に苦しみして生きて来ていますが、 あのスギさんとの考えを思い出しますと、 苦しみも、喜びも、自分の物であろうと、他人の感情であろうとも、 何もかもが自分の創造物に思えます。 僕は今一歩の自由や成熟を、あのスギさんと立てた説に見出せるのかと思います。 | | | | 唄い手にあたうる記 | 2011/01/22 | | | いい加減、その日暮らし、嘘つき、遊び人、気分屋、貧乏、無責任、 それが唄い手だと言われれば、なるほどと感心する。 そう言えば、そんな言葉で賞賛された経験は幾度もある。
ありとあらゆる中傷を得て、唄い手は唄う技術者としての役割を果たし、 世の中の担い手にもなれる事と思う。 それを抜けば、世の中に唄い手ほど使い道のない者はいない。 上手に唄えたところで、 この世には宴会の座興や太鼓持ちくらいにしか食い扶持はない。
嬉々とした高音も、麗しく叙情的な中音も、激しくうなる低音も、 ありとあらゆる努力の集大成が、 人の生活の座興として一夜にしてその役目を終えるようになっている。 こんな者になりたいと志してなるもんじゃない。 いい加減、その日暮らし、嘘つき、遊び人、気分屋、貧乏、無責任、 を会得して、世の中に無益有害と判を捺された者のみが貶められてなるものだ。
私は、最近、ようやく唄い手らしくなってきたと感じる。 私もようやく一人前に無益有害に大成して来た。 そのまま生きて、生き続けていくのが唄い手だ。 どうやっても生きて、死ねないのが唄い手だ。
私は人々が喜び上ずった声、 怒り、憎悪する表情、 悲しみ、絶望する涙、 これらから少しだけ離れたところに突っ立ち、 無表情に眺めて、矢張り、一声もかけずに立ち去り、 それを唄にするのだ。 | | | | 奉先 | 2010/12/24 | | | ひもじいたびに親を選んだ数、三人。 欲しいものがあると幼子のように得ようとし、 その犠牲となり死んだ親の数も、まさにその三人。 万世の人々に、軽薄な裏切り者と罵られ、 知恵のかけらもないと侮蔑された、奉先。 何を言われようと、奉先は清らかに人生を駆け抜けた。
僕は彼が好きだ。 自分もこうあるべきと思ったりする。 彼の見ていたものは、 遠大な理想でもなく、聡明な大義でもなく、高貴な志でもない、 今、目の前にある光明を泥臭く欲しただけだ。
彼は赤兎が欲しい為に父、丁原を殺し、 彼は貂蝉が欲しい為に父、董卓を殺した。 その為に彼は裏切りの代名詞として語られて来たが、 彼は赤兎を一途に愛した。 また、貂蝉も身を焦がして愛した。 彼は自分が欲したものを裏切りはしなかったのだ。 愚直なまでに愛して止まなかったのだ。 そして愛された赤兎も貂蝉も彼の心を知り、愛していた。
僕にそんな清らかで一途な面があれば、 僕の愛した人は悩まず、苦しまずに済んだのにと思う。 誰に何と言われようとも、幸福でいられるのにと思う。
奉先、願わくば君のその方天画戟で、 僕の散漫な志を、聞こえのよいだけの心情を、 一刀のもとに伏してほしい。 50歩離れたところから百斤の弓で、 僕に残ったほんの一寸の誠実さを射抜いて欲しい。
奉先、僕は君に憧れている。 | | | | ラスト誕生日LIVEを終えて | 2010/10/22 | | | 10/12のラスト・バースデー・ライブ『アンチエイジング35』にお越し頂いた皆様、 本当に有り難うございました。
誕生日も35回目を経験しました。 だから色々なプレゼントも頂いてしまうと、 申し訳ないですと思うようになりました。
別に「年を取りたくない」なんて自然の摂理に反した事は望まないんですが、 改めて年齢を意識すると、少し気恥ずかしい気がします。
前述の二つの想い(申し訳なさ&気恥ずかしさ)から、 今年でバースデーライブは最後にしようと思ったのです。
あのライブ以降、今まで、身体が極端に疲弊していたような気がします。 2時間の『一匹で弾き語り』は初のトライで、 正直なところを申し上げますと、 矢張り、前日まで不安が大きかったです。 でも、ライブが始まって、俺の愛ギターから、 「ガン!」と最初の音が鳴り始めた瞬間に、 楽しい興奮に掻き消されてしまいました。 その前日までの不安と、ライブ中の急激な楽しい興奮の上昇に、 35歳の身体は次の日にはグッタリ重苦しくなっておりました。 またひとつ、年を重ねた実感ですね。
その為に、 皆さんにお礼を申し上げる事が遅くなってしました。 申し訳ございません。
今は元気にピョンピョンしております。
さて、ここから年末に向けて、ライブの数は少ないのですが、 12/26(SUN)に向かえる今年最後のライブ、 新高円寺STAX FREDでのワンマンに向けて、 たくさんの準備をしなければならないと思ってます。
思えば、思い立ったが吉日で、 大阪・名古屋に旅をし、 誕生日の2時間弾き語りライブをしました。 グッとバイタリティーを燃やして、今の自分が充実して来たのを感じます。
12/26のSTAX FREDでのワンマンではまた趣向を変えて、 複数編成のステージを企画しております。 この2010年に通った経験から、 エネルギーの全てを集約してお見せしようと思います。 また、色んな事が徐々に決まり、概要が固まっていきますので、 その都度、お知らせします。 どうか、俺という亀の全力疾走から眼を離さないようお願いします。
追伸: 何気なくtwitterを始めていたので、OFFICAL siteにも載せる事にしました。 フォローが増えるとどうなん?とか、 リアルタイムのツイートを見れるからどう?とか、 何の意味があるか、まだよく理解いていません。 が、何気なく呟いていくので、 フォローの方も、宜しくお願いします。
| | | | 大阪・名古屋の有り難う | 2010/09/20 | | | これは随分、久し振りの慕夜記なのであ〜る。 大抵、久し振りの慕夜記はこんな書き方で始まるのであ〜る。
しかし、ナイーブに不精を塗り重ねた俺のばやい、 慕夜記が久し振りになる事はこまめに起こり、常なのであ〜る。
久し振りのメールやご無沙汰の電話も、日課なのであ〜り、 こいつは久し振りとは言わないような気がするのであ〜る。
つまり、これはよくある久し振りの慕夜記なのであ〜り、 全自演、否、全然久し振りな事じゃないのでしお。 何だか「久し振り!」は、冒頭の挨拶としてチ〜グハッグであ〜り、 恥ずかしい気持ちにさせられるのであ〜る。
そして今回もこの挨拶に「ご無沙汰してゴメンね」という心は、 見分けにくく、伝わりづっら〜いのである、おる。
9月、やっと大阪・名古屋で、 これまたひっさしブリッなライブをする事ができました。 待っていてくれて、駆けつけて下さったミンナの顔を見て、 ノドの奥がキュンと詰まる想いでした。
「ありがとう」 の数文字を発声するのに、止めどなく汗を掻き、 「また会おう」 の一心を伝えるのに、幾千万ポ歩き、七百回の舞台に上がりました。 そして得心しました。
僕はミンナに会いたい。 そん為に唄っている訳で、そん為に久し振りの間をちぢめようと歩くのです。 その一心大汗が僕の表現です。 | | | |
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